こういうルートもある受験の話。(駄文)

こういうルートもあるし、ある意味私は女性で良かったと思っている話。

大学受験に失敗(国公立四大落ち)ぐすまんは、国公立短大に進学した。
母に私立大には行かせられないと言われ、滑り止めに受けていた短大だった。

「今すぐに実家を離れたい」
「浪人は無理(数学を理解するのは無理)」
センター数1 40点/200点だったかな…(限界)
「何浪しても受かる自信がない」
と感じていたので、落ちた瞬間
「せや、大学編入しよう!」
と思ってそのつもりで進学した。

四大に落ちたときに、編入学試験の科目は調べていた。
生化学/英語/国語…等
数学がない!!!ヤレると確信した。
それで、国公立大の編入学試験を受けて合格。
(レベルは高くない。ボーダーフリーなのかな。)

何で女性で良かったと思ってるかというと、
ダイアンのユースケ氏が「男やのに短大通ってた」と自虐(?)ネタで言ってるように、男性が短大に通うことは、おかしい選択肢だとは全く思わないけど、女性の方が違和感が少ないルートだと思うから。周りからとやかく言われることが少ないっていうのかな、難しいけど。

まあ、こんなルートもあるんだ、っていう参考までに。
編入学後は、1,2年生の授業を出席日数を計算しながら同時期に受けなくちゃいけなかったり(=試験も通常の倍)、思い描いていた大学生活とは少し離れていたから、オススメはしないかな。逃げた自分が悪い、ツケが回ってきた〜と思うしかなかった。
それに、数学から逃げ続けても就活で戦わないといけなくなるし、私はそれで敗戦したので数学から逃げ続けるのはオススメしない。

二十歳のときに書いたラブレター(駄文)

インディーズお笑いライブの出演者を好きになり、その人に手紙を渡した。私の環境の変化でライブを観に来れるのが最後だと思ったら今思うといらんかった勇気が出た。

確か便箋1枚か2枚だったか、何を書いたのかは全く覚えてないけど、末筆に「これはファンレターではなく、ラブレターです」と書いたことだけは鮮明に思い出され今も顔から火を出しながら書いている。黒歴史だ。

もし、今もこの手紙を持ってくださっていたら、またお会いしましょう。一緒にこの手紙を燃やしましょう。




この手紙にアドレスも書いていて、メールが来たときは本当に嬉しくって、遊んでくださったのも本当に嬉しかったけど、私のコミュ障が炸裂して遊んだこと自体も私の中で黒歴史になってしまった。手紙にはあんなに好きだと書いているのに会ったら一言も喋らないし無愛想なままだし本当に驚いたことだろう。本当に申し訳ない。記憶も燃やしたい。

この方たちのコントは本当に面白かったのに、気まず過ぎてライブも観に行けれなくなったのは後悔がすぎる。ファンはファンのままで…

こういう人間だと思われにくいから浄化されない話(駄文)

大学4年生
栗東市にある病院を受けた帰り、節約のため京都駅(0時発夜行バス)→東京駅(7時着)→上野駅(10時発昼行バス)→青森駅(21時着)という行程を組んでいた(若い)。
どうでもいいけど、当時は競馬を知らないので栗東市=馬の街だとは知らなかった。平和堂しかないな〜という感想しかなかった。
知ってたらもうちょっと本気で受けたかもしれないな…

さて試験終わりの京都駅、深夜0時にバスに乗り込もうとしたところバスの運転手さん「予約されてません。」
私「ふぁ?!?!」調べると予約日を1日間違えていた。
知り合いもおらず、終電も過ぎた0時の京都駅でとりあえず3分くらい泣いた。
どうしよう。と思っていると脳内に「吉田くん、京大行ってるらしいよ!」成人式のとき友人が言っていた言葉が流れた。中学以来一度も会っていない、なんなら中学時代一度も話したことがない吉田くんの顔が頭を霞めた。もちろん連絡先も知らない。
吉田くんに助けを求めるのは非現実的過ぎるので、冷静になってから見つけた駅前のカラオケ屋さんに泊まった。夜通しラバーガールのネタを見続けたと思う。翌朝、始発の新幹線で帰った。
カードさえあればとりあえず何とかなることを学んだ。


今度は東京にある企業を受けに来た。今回も節約のため上野駅から青森駅へ夜行バスで帰る予定にしていた。
上野駅、23時にバスに乗り込もうとしたところ「予約されていません。」
え?また?!?!同じミスを犯していた。
バスに乗れないことより同じミスを犯す自分にショックを受けたが、とりあえずカードがあればなんとかなることは学んだので上野、御徒町の街を楽しんだ。
翌朝、新幹線で帰った。



再び東京の企業を受けに来た。
0時、上野駅。バスの運転手「予約されていません。」
よし!上野の街を楽しむぞ!
切り替え早すぎて自分でもビックリした。
だから、東京に住んだことはないけど、上野の街は一番思い入れ深い。
秋葉原あたりまで歩いたんじゃないか。
翌朝、新幹線で帰った。
とっても楽しかったナ。
翌月のカードの明細を見て泣いた(愚か)。

おわり

10年経ったから書いてみよ、祖父とのこと②(駄文)

https://mojikakeruinu-guzman.hatenablog.com/entry/2020/12/10/220921
の続き

退院した祖父との2人暮らしが始まった。
私は短大の家政科に通っていたのに、ほぼ全く料理が出来ず申し訳なかった。
祖父は米の研ぎ方にうるさく、毎回水が透明になるまで洗わされた。あと、排水口に米をこぼすのも怒られた。
親戚が釣った魚とか作ったお惣菜を持ってきてくれるのと、夕食は毎日宅食を頼んでいたから、食べるのものには困らなかった。
祖父は毎日食べている宅食は飽きているのか、ほぼ私が宅食のお弁当を食べていた。

退院してから1週間だったか正確には忘れてしまったけど、夜にガシャーン!という音がして目を覚ました。
音がする方に行ってみると、祖父がトイレで倒れていた。頭を切っていて、立ち上がることが出来ずに、四つん這いでしか歩けなくなっていた。
祖父は何がなんだかわからないような様子だった。

ここから朝までよく覚えてないんだけど、また祖父に寝て大丈夫と言われてそのまま爆睡してしまったと思う。

朝が来てもまだ祖父は立ち上がれず四つん這いでしか歩けないのに、病院にはいかないと行った。
何度も説得して、祖父兄の車で病院に行った。

祖父が検査をしてたときに何をしてたのかとかどれくらい時間がかかったのかとかよく覚えてなくて、次に覚えてるのは祖父が肺炎で入院してたときと同じ病室、同じベッドにいて、私が主治医に廊下に呼び出されたところ。

「肺がんが脳に転移しています。」と淡々と言われた。

ん?脳に転移?そもそも肺がんだったの?

夕方になると、親戚の叔母ちゃんと叔父ちゃんが病院に来た。
叔父ちゃんに「自分の口で母に伝えられるか?」と聞かれ、母の悲しむ顔が浮かんで「言えない。」と答えた。
その様子を見た叔父に「もしかして知らなかったの?」と言われた。

そういえばと思い出したけど、春先に祖父が体調不良だと母が長崎に行っていた。帰ってきてからどうだったのか聞いたら、何ともなかったと言われたのですっかり忘れていた。そのときには既に祖父はステージⅢの肺がんだったらしい。

祖父宅に戻ってから、何で言ってくれなかったのか、何でそんな祖父と私が2人きりで生活するのを許したのかと母に泣きながら電話すると、祖父が高齢だから体力的に治療はしない方がいいと決めたこと、高齢だから進行も遅いと思ったこと、これから今まで通り幸せに余生を生きてもらうために祖父本人には言わないほうがいいと思ったこと、孫の私たちに言うと雰囲気から気付かれると思ったから私たちにも言わなかったと言われた。


この日からまたお見舞いの毎日が始まるけど、肺炎で入院したときとは違い全くゆる〜い日常ではなかった。
祖父はどうして左半身が動かないのか知りたがっていた。でも、母が言わないと決めた以上は私の口からは言えなかった。ただ座るのも安定せず、ご飯を食べるのも一苦労だった。一人でトイレに行くこともできなくなり、オムツを変えてもらうときには「赤子に戻ったようだ」と苛立ちながら言う祖父の声が聞こえた。

「あ〜あのとき、〇〇と〇〇と一緒に死ねばよかった。」母に聞くと、戦死した友人の名前だった。

そんな毎日だから、お見舞いにも行きたくなくなり事実ではあったが、お金がなくなったことにしてお見舞いに行かないと言ったら祖母の弟嫁がお金を渡してきたので行くしかなかった。

5週間くらい朝10時のバスに乗って16時のバスで帰ってくるのを毎日通い続けたんだろうか。
昼間は祖父は寝ていることが多くなり、私も机に突っ伏して寝たり、大学編入のための勉強をしたり、親戚の叔母ちゃんが暇つぶしにと買ってきてくれた刺繍をして過ごした。完成した刺繍は、病室に飾ってたけど、祖父が亡くなったときに棺桶の中に入れた。
祖父は不味いまずいと言いあんまり病院食を食べたがらなかったから、残したら私が全部食べた(だめだけど)。私の口には美味しかったけど、やっぱり入院してる人と家に帰れる私の口とは違うのかもしれない。
もともと管理栄養士を目指していたけど、病院食を作る管理栄養士っていう具体的な目標も出来た。



いい人達だけど人見知りの自分が祖母の弟宅で寝泊まりするのもストレスで、毎日頭痛に悩まされるようになり、祖父宅でひとりで寝る日もあった。

けど、病名を知らされずに苦しんでいる祖父を見てる方が辛かった。
祖父は不眠に悩まされ、夜は痛みで眠れなかったようだけど、私は日中の祖父しか見ていないから全く知らなかった。同室の木場のお婆ちゃんとかは、毎日寝泊まりしていたからその様子を知っていて、うるさいと少し文句を言われた。

1ヶ月半経つと、母が仕事を休んで長崎に来てくれた。相当私が参っていたからだと思う。

1ヶ月半ぶりに会った母は、祖父が私を頼りにしている姿を見てビックリしていた。特に、「ぐすまん!」と呼ばれるとすぐに私が肛門のただれに薬を塗る姿とか、し尿瓶でトイレを済ませてあげるところとか…なぜかこういうのは全く苦には感じなかった。
肺炎で入院してたときに、祖父は大腸がんの既往もあり便秘気味だったから便が出たのが嬉しかったらしく「ぐすまん!うんちのようけでたけ見んか!」と男子トイレに入らされうんこを見せつけられたのは勘弁してほしかったけど…


肺炎で入院してたときもそうだったけど、夕方になって帰るときは必ず祖父と「また明日ね。」と言って握手をした。

2ヶ月経って、私の夏休みが終わったのでお見舞い生活は終わった。
学校が始まると、楽しかった思い出を話す友人たちに囲まれて私の夏休みの話も聞かれるけど、周りからすれば少し暗い話だから話せないし、何といったら良いかよくわからずにギャップに頭が混乱した。

11月頃になると、母からもう祖父は長くないと連絡がきた。だいぶモルヒネの量が増えて、意識朦朧としてる時間が増えたらしい。

生きている間にもう一度会いに行ってもいいかと聞くと、喋ったりは出来ないよと言われたけど、会いに行った。
祖父のそばに行って「お爺ちゃん」と言うと、カッと目を見開いて力強く手を握ってくれた。
「帰るね」と言うと聞き取れなかったけど、何か言ってくれていた。

それからひと月後に祖父は亡くなった。
会う親戚会う親戚に、「夏に私がいてくれてよかった。じゃなかったら祖父は家で一人で亡くなってたかも。」と言われた。私からしたら祖父は一人でいた方がノンストレスでもっと長生きできたんじゃないかとも考えてしまう。高齢なのに、春先に発覚して1年持たずに亡くなってしまった。


そんな感じで絶対に忘れたくない19歳の夏休みだった。
また思い出すことがあったら、書き足していく(その際は更新しない)。

10年経ったから書いてみよ、祖父とのこと①(駄文)

祖父が亡くなって10年経った。
だんだんと忘れてることも多くなった様に感じるから、今以上に忘れないうちに書いておこうと思う。

私の祖父(当時86歳)は、長崎県の島に住んでいた。
私が小学校4年生になるまでは祖母と2人で暮らしをしていたけど、亡くなってから10年間はずっと一人暮らしをしていた。
『ぽつんと一軒家』に出てくるような(実際に別の家が出ている)ご近所なんてないような場所。
祖母の弟の家族が近くに住んでいたので、祖母の弟嫁が祖父に会いに来てくれていた。

祖父宅には、お盆とお正月の年2回行っていた。
毎回最終日はお腹が痛いと不調を訴えていた。寂しかったんだと思う。

私が短大に入り親元を離れて寮生活を始めると、祖父の感じている寂しさが身に沁みてわかった。
だから、短大1年生の夏休みは丸2ヶ月間祖父宅で過ごすことにした。

お盆の一週間は、母姉兄もいて、親戚も遊びに来たりしていつも通り過ごした。

お盆が終わり、母姉兄は帰って祖父との2人暮らしが始まった。
親戚の叔母ちゃんと佐世保の米軍基地を観光したり佐世保バーガーを食べたり、祖父の友人宅に遊びに行ったりして一週間が過ぎた。

一週間後、夜中に祖父の苦しそうな声で目が覚めた。
何度も「吐いたら楽になるばって。」と言っていた。
「大丈夫?」と聞くと「大丈夫だから寝てよか。」と言われ、その祖父をおいたまま言われたとおりに爆睡した自分に絶望した。

目が覚めると、祖父が「祖父兄(90歳)に連絡してくれ、病院に行く。」と言ってきた。


祖父兄の車で病院に着くと診断は「肺炎」。即入院した。
親戚の叔母ちゃん(看護師)が祖父宅で入院セットをまとめてくれ、それを持って病院に行った。
祖父は苦しそうに寝ていて、会話は出来なかった。
私が一人で祖父宅にいるのは危ないということで、以降は祖母の弟宅で寝泊まりすることになった。

次の日親戚の叔母ちゃんの車で病院に行くと、「初めて肺炎になったばい!」となぜか嬉しそうに報告してくる祖父がいた。だいぶ元気そうだった。

次の日からは、バスに乗って病院に行った。
バスは、家の前で手を上げると止まってくれる。毎日乗客は私ひとりだった。
「ハチおんちゃん(祖父のあだ名)の孫きゃ?」
家が特定されているのでわかるらしい。バスの運転手は、祖父が運転手をしていたときの部下だった。祖父が入院していることを伝えた。

毎日お見舞いに行くと、同部屋の方とも顔見知りになる。

一人は、木場(地名)のお婆ちゃん。88歳と言っていたっけ、とても元気なお婆ちゃんだった。祖父のベッドと対角上にいるのに、毎日ハイチュウとかおまんじゅうをその場から投げて私に下さっていた。今思うと筋力凄い。このお婆ちゃんは、祖父のことを知っていた。何でも祖父がバスの運転手だったとき、運行中に用を足しにトイレを貸して貰ってたのがこのお婆ちゃんの家だったらしい(時代)。そんな祖父なのにファンクラブがあり、このお婆ちゃんも一員だったと聞いた。だから祖父だとわかったときは、「え、、もしかしてあの?!?!」みたいな感じになっていた。入院してるのは、98歳のお爺さんで、もう会話とか起きることも出来ないように見えた。クリスチャンなのか、ずっとロザリオを握っていた。

もう一人は、?崎さん。名前忘れてしまった。
入院してたのは元気でよくしゃべるお爺さんだった。娘さんも毎日のようにお見舞いに来ていて、高校生の息子がどうしようもなくて心配だと言っていた。でも聞くと国見高校のサッカー部に入っていると言っていて、どないやねんと一人で心の中で突っ込んだ。

入院して一日目以降の祖父は元気いっぱいで、リハビリ!と言って毎日手を繋いで廊下を散歩した。
テレビが置いてある部屋まで行って、水戸黄門を観るのが決まりだった。

そんなこんなで毎日病院に通いつつも、ゆる〜い日常が流れ平和だった。
1週間で、祖父は退院することができた。
同室だった方々と、さようならをして、家に帰ってきた。
その夜、親戚の叔母ちゃんと3人で退院祝いをした。

書き疲れたので一旦終わる。

肖像権を失ったお寺でのフォトウェディングレポ(駄文)

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(図:お気に入りの1枚だぜ!)


8時30分現地着、着付け等開始
(朝遅くて助かる)

10時00分、1時間30分メイクをされ続けていることに驚愕する

10時40分、着付け終わり、お寺へ移動

11時 僧侶によるご祈祷開始
氏名〜家内安全〜と言ってるのは聞こえた。
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(図:ありがてぇ)

ご祈祷のあと、家内安全のお守りをいただけだ。とっても嬉しい。
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(図:大切にさせていただくゥ)
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(図:大切に大切にさせていただくゥ)f:id:mojikakeruinu_guzman:20201205070939j:plain
(図:読めるかしら)


ご焼香の回数について、2回が正しいのか3回が正しいのが迷うけど、1回か3回が正しい。奇数なのが決まりという話を聞いた。わしこういう話聞くの好きやねん。テンションアガる。
そして「今日、このお寺は、全部あなたのものになったと思っていい。」と言っていた。要は目立つからって事だな。


ご祈祷のあとから14時までぶっ通し、メシも食わずに写真を撮り続ける。
途中、もういいっすわ…と心が折れ始める。
ずっと外で撮影してるから、足元から首元から冷えまくる。何重にも着重ねた私でもこの状態だったが、袴しか着てない夫はもっと寒そうだった。


家族は、ご祈祷と家族写真が終わったら帰ると思ってたけど、何やかんや最後まで居てくださった。
最初はみんなパシャパシャ写メを撮ってくれていたのに、最後の方はどんなポーズを撮ってもこちらを見向きもしない。
しかし義父だけは撮り続けてくれていた。
逆にそんなに撮ってどうするんだよ、と思う。 
(ありがとうございました)


貸し切りには出来ないので参拝客もいるなかでの撮影。
「おめでとうございます!」
「今日来てよかったわ〜!」
「花嫁さん綺麗〜!」
「白無垢が綺麗〜!」
(白無垢が、綺麗〜!)
などと言われる。そして遠慮なしにパシャパシャ。
あれ、私の肖像権どこいったねん。
知らん人のそんな撮りたいか…?などと思いながら、競馬場で肖像権を侵害しまくってる私は文句も言えず、撮影は続く。
(撮影してるせいで自由に歩けなかったり、参拝客に多少迷惑をかけるので、これくらいは我慢)


義祖母は、100回くらい「鼻筋が通って綺麗〜!」「可愛い〜!」「来てよかった〜!」と言ってくださっていた。
このお寺に来たのが30年ぶりらしく、このお寺で挙げると伝えたときから楽しみにしてくださっていた。
本当なら足が悪くて来るのは難しいかもしれないけど、スタッフの方が各か所を車で送ってくださったので一緒に回ることができた。本当によかった。


母は「綿帽子被らないの?綿帽子姿好きなのに!」と。いや、そんなん今日初めて知ったけど母に見せられてよかった。
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(図:夫も絶賛のわしの綿帽子姿(黙れ))


撮影が終わったら記念に初めて御朱印をいただいて帰る予定だったけど、すっかり忘れていた。
いただいたらお寺で挙げるメリット1つ増えると思われる。


あと、書写山圓教寺は、広くて撮影スポットもたくさんあるから、それも良かった。
紅葉のシーズンは終わってしまったけど、ところどころ残ってるところもあり、そこで撮影することが出来た。


大好きなお寺で挙げられたってのが一番大きかった。自分たちだけが好きなのではなく、兵庫県(特に播磨地域)で生まれ育った婚家の親族たちにも馴染みが深いし、愛知から来た私の家族も数年前に観光で来ていて気に入っているお寺だったから、それもよかったな。


このお寺でフォトウェディングをしてなかったら、結婚式も写真だけ記念に残すのもしない予定だったから、なんつーかご縁に感謝!(締め適当)


余談、カメラマンさんも熱烈な競馬ファンで撮影中ずっと競馬の話をしていた。草
走る競走馬の写真が撮りたくて一眼レフを買う予定してたけど、この撮影で夫がカメラに興味を持ち、買う気になってる。それならば私は買わない!お金浮いた!やったぜ!


余談②、このご時世で結婚式を挙げられないからか、親から結婚式を挙げたいという問い合わせが相次いでいるとウェディングプランナーの方から聞いた。挙げられて親孝行にはなったと思うが、本人の意見も尊重してほしいところだよな(?)


これにてわしの結婚話を終了する。
ながながすみませんでした。

フォトウェディングをしてよかった(駄文)

もともと結婚式なんて絶対に挙げたくなかった。写真も撮りたくなかった。理由として

姉の結婚式のときに母が「父の顔を見たくないから出席したくない」と姉に内緒で相談してきたから。そして結局、母は出席したけど、式の間両親の間に嫌悪な雰囲気が出ていたから。
(両親が会話をしているのを小学生のときから見たことないが、年金の受給額が減るということで何やかんや今も離婚はしていない。別居してる。)
②お金が勿体ない。400万円近くかけた結婚式をするより、結婚記念に1点400万円の馬券を買ったほうが確実に記憶に残るやろ。
③写真だけって何やねん、ただのコスプレやんけ。
④そもそもウエディングドレスが花嫁衣裳って誰が決めたんや。
⑤初めましての神父に愛なんか誓えるか。
キリスト教じゃないし。
⑦そもそも思い出なんかいらん。
⑧姉「結婚式は親の子育ての卒業式みたいなものだから…」
 →成人式は何のためにしたん?
  子ども産んだら里帰りして親の世話になる人ばかりなのに、卒業式ってなんなん?卒業してないやん。我々はまだまだ親の世話になるんや。
(※結婚式=親の卒業式って言う考え方を否定しているだけで、里帰りを否定している訳ではない。)
⑨いま幸せに生きていたらそれで十分。誓いも記念も何もいらん。
(※これは自分が行う場合のみ思うことで、家族友人の結婚式に出席したらちゃんと感動して涙している。)



そんな自分が何で挙げることになったかというと
①親戚一同、挙げろとうるさい中でも90歳の義祖母がうるさかったが、90歳まで生きて願いを叶えられないのは可哀相。
②実際に結婚生活を送ってみると何か人あらざる者に誓っとかないと不安になった。紙出すだけでは不安。すぐに別の紙を出してしまいそうで。
③大好きなお寺でフォトウェディング(祈祷付き)をしていることを知ったから。


いろいろ言ってた割に、割とあっさり挙げることになった。


フォトウェディングを挙げることを職場の人に言うと、私は現職に入る前に入籍したから、独身時代の私を知らないのに、たくさんおめでとうと言ってくださる。
「こんなご時世だから、明るいニュースがあるだけで嬉しいのよ。」って言葉がとても嬉しかった。


正直、周りが持て囃してくれるより、自分の中でのフォトウェディングへの気持ちは淡白なものだった。
なんとなーく、今までは新郎新婦が周りに幸せを与えているようなイメージだったけど、そんな言葉ばかり頂いて、こちら側が幸せになれるわ!!と思った。

結婚式を挙げることを決めて、それを周りに言わなかったら、かけられなかった言葉ばかりだったから、挙げてよかったなと思った。

でも前の記事にも書いたように、新しい職場の方にフォトウェディングをすると言ったのは失敗だったけどね。

次回、フォトウェディングレポ。
結婚ついて書くのは次回で最後にする。