10年経ったから書いてみよ、祖父とのこと①(駄文)

祖父が亡くなって10年経った。
だんだんと忘れてることも多くなった様に感じるから、今以上に忘れないうちに書いておこうと思う。

私の祖父(当時86歳)は、長崎県の島に住んでいた。
私が小学校4年生になるまでは祖母と2人で暮らしをしていたけど、亡くなってから10年間はずっと一人暮らしをしていた。
『ぽつんと一軒家』に出てくるような(実際に別の家が出ている)ご近所なんてないような場所。
祖母の弟の家族が近くに住んでいたので、祖母の弟嫁が祖父に会いに来てくれていた。

祖父宅には、お盆とお正月の年2回行っていた。
毎回最終日はお腹が痛いと不調を訴えていた。寂しかったんだと思う。

私が短大に入り親元を離れて寮生活を始めると、祖父の感じている寂しさが身に沁みてわかった。
だから、短大1年生の夏休みは丸2ヶ月間祖父宅で過ごすことにした。

お盆の一週間は、母姉兄もいて、親戚も遊びに来たりしていつも通り過ごした。

お盆が終わり、母姉兄は帰って祖父との2人暮らしが始まった。
親戚の叔母ちゃんと佐世保の米軍基地を観光したり佐世保バーガーを食べたり、祖父の友人宅に遊びに行ったりして一週間が過ぎた。

一週間後、夜中に祖父の苦しそうな声で目が覚めた。
何度も「吐いたら楽になるばって。」と言っていた。
「大丈夫?」と聞くと「大丈夫だから寝てよか。」と言われ、その祖父をおいたまま言われたとおりに爆睡した自分に絶望した。

目が覚めると、祖父が「祖父兄(90歳)に連絡してくれ、病院に行く。」と言ってきた。


祖父兄の車で病院に着くと診断は「肺炎」。即入院した。
親戚の叔母ちゃん(看護師)が祖父宅で入院セットをまとめてくれ、それを持って病院に行った。
祖父は苦しそうに寝ていて、会話は出来なかった。
私が一人で祖父宅にいるのは危ないということで、以降は祖母の弟宅で寝泊まりすることになった。

次の日親戚の叔母ちゃんの車で病院に行くと、「初めて肺炎になったばい!」となぜか嬉しそうに報告してくる祖父がいた。だいぶ元気そうだった。

次の日からは、バスに乗って病院に行った。
バスは、家の前で手を上げると止まってくれる。毎日乗客は私ひとりだった。
「ハチおんちゃん(祖父のあだ名)の孫きゃ?」
家が特定されているのでわかるらしい。バスの運転手は、祖父が運転手をしていたときの部下だった。祖父が入院していることを伝えた。

毎日お見舞いに行くと、同部屋の方とも顔見知りになる。

一人は、木場(地名)のお婆ちゃん。88歳と言っていたっけ、とても元気なお婆ちゃんだった。祖父のベッドと対角上にいるのに、毎日ハイチュウとかおまんじゅうをその場から投げて私に下さっていた。今思うと筋力凄い。このお婆ちゃんは、祖父のことを知っていた。何でも祖父がバスの運転手だったとき、運行中に用を足しにトイレを貸して貰ってたのがこのお婆ちゃんの家だったらしい(時代)。そんな祖父なのにファンクラブがあり、このお婆ちゃんも一員だったと聞いた。だから祖父だとわかったときは、「え、、もしかしてあの?!?!」みたいな感じになっていた。入院してるのは、98歳のお爺さんで、もう会話とか起きることも出来ないように見えた。クリスチャンなのか、ずっとロザリオを握っていた。

もう一人は、?崎さん。名前忘れてしまった。
入院してたのは元気でよくしゃべるお爺さんだった。娘さんも毎日のようにお見舞いに来ていて、高校生の息子がどうしようもなくて心配だと言っていた。でも聞くと国見高校のサッカー部に入っていると言っていて、どないやねんと一人で心の中で突っ込んだ。

入院して一日目以降の祖父は元気いっぱいで、リハビリ!と言って毎日手を繋いで廊下を散歩した。
テレビが置いてある部屋まで行って、水戸黄門を観るのが決まりだった。

そんなこんなで毎日病院に通いつつも、ゆる〜い日常が流れ平和だった。
1週間で、祖父は退院することができた。
同室だった方々と、さようならをして、家に帰ってきた。
その夜、親戚の叔母ちゃんと3人で退院祝いをした。

書き疲れたので一旦終わる。