名前も知らない人に助けられた話(駄文)

最近、もし過去に助けてくれた名前も知らない人たちがいなかったら、もしその方たちが悪い人なら私は今ここにいないよなあと思うことが多い。
助けてくださった人たちのことは絶対に忘れたくないので、備忘録として書いていきたいと思う。
(脳みそがゆるい女とその家族たちの話なのでイライラさせたらすみません)

①4歳(推定)
三重にあったテーマパークに家族で行き、巨大迷路に入ることになった。私は怖くて入りたくなかったので、一人で出入り口付近にあったベンチに座って待つことになった。ところが1時間経っても家族が出てこない。私は中で家族が〇んだんだと本気で思った。そう思ったら涙が止まらず、一人で大声を出して泣き続けた。
そんな私を見て、おばさまグループが声をかけてくださり、家族が出てくるまでそばにいてくださった。おそらく、30分以上。
その後、家族は出てきてくれたが、家族もなかなか出口が見つからず、私が待ってるから降参しようと非常口から出ようとしたら真下が崖で散々な目にあったと言っていた。
あのおばさまたちがいなかったら誘拐されていたかもしれないし、あのおばさまたちがいてくださって、良い方たちで助かった。

②16歳(高1)
電車通学をしていた高校生の頃、最寄り駅から2km先の自宅まで歩いていた。雨が降っていたが、傘を忘れたので濡れながら1kmほど歩いていると、目の前に黒い軽自動車が止まった。何だろうと思っていると、運転席の窓が開き、推定20代のお兄さんが折りたたみ傘を差し出してくれた。
「ありがとうございます。」と言って受け取り、「どうやってお返ししたら良いですか?」と聞くと、お兄さんは返答に困り、「乗りますか?」と聞いてきた。お礼を言って後部座席に乗りお礼を言ってドアを締めた瞬間、「(あ、やばいやっちまった…)」と思った。
お兄さんはもおそらく同じようなことを思ったようで、「全身真っ黒(制服)なので外国人なのかと声をかけるか迷いました。」と言ってきた。車内はスティッチのぬいぐるみやタオルがたくさんあり、多分優しい人なのだろうと思った(スティッチに信頼を置きすぎ)。どこまで送ったらいいのか聞かれたので、私の実家の最寄りの施設で目安になるところがそこしかないので「警察署でお願いします。」と言った。車を降りる前に「お母さんには言わないようにね。」と言われた。おそらく私が怒られないようにだと思う。それと「知らない人の車には乗ったらだめだよ。」とも言われた。母にはこのことを言ってない。
今思えば、傘受け取るなよって話だった。ただ優しいお兄さんで良かった。

③16歳(高1)
病院で診てもらってないから定かではないが、症状から調べるに当時は自律神経失調症で、毎朝地下鉄の車内で立っていると頻繁に冷や汗、悪寒、吐き気、下痢、めまいのすべての症状が同時に出ていた。その日も車内で症状が出てきて倒れそうになったので、見回して一番優しそうな見た目をしていた会社員っぽい男性に席を譲ってもらった。「気分が悪いので席を譲ってください。」と言われて譲らない人は少ないとは思うのだが、ああ、譲ってもらえてよかったと今でも思い出す。
症状自体は、早めに家を出て1本目の電車に乗り、2本目の電車に乗る前に20分くらいホームで座って休むと出ないことに気がついたので、それ以降は大丈夫だった。

④19歳(短大生)
春休みに実家に帰省していた。深夜1時頃、さくらももこさんのエッセイを読んでいた。そこには、短大の卒業旅行で飛鳥を旅したことが書かれていた。私も当時短大に通っていたので、さくらももこさんと同じ年齢のときに私も飛鳥に行かなければと思った。思い立ったが吉日なので、その日の始発の電車に乗り飛鳥に向かった。(ひとりで)(私はいつだってひとり)
書いてあったお茶屋さんや観光スポットなどを、さくらももこさんがしていたようにレンタルサイクルでめぐり、ひとりでテンションが上がっていた。
その後、エッセイには書かれていなかったが、香久山を見に行くことにした。高校の古文で習った「春過ぎて 夏来にけらし 白たへの 衣干すてふ 天の香具山」という和歌が何故か好きだったから、どうしてもこの目で香久山を見てみたかった。
香久山は甘樫丘展望台から見ることができるが、甘樫丘のふもとまで来て、「マムシ注意」の看板に怖気づいた。どうしようか迷っていると、観光ガイドのジャンパーを着て自転車に乗ったおじさんが通りかかった。「マムシが怖くて登れません。一緒に登っていただけないでしょうか。」と声をかけると、一緒に登ってくださることになった。展望台で大和三山のこととか色々説明してくださった。このあとの予定を聞かれたので、当時お笑いコンビ ライセンスのファンでどうしても行きたかった2人の出身地である「生駒市に行く以外は決めていないです。」と答えた。
すると、おじさんが観光ブックには載っていないおすすめの観光スポットがあるから着いてきてほしいと言った。おじさんは自転車を漕ぐスピードが速いので、必死でついて行った。ついた山の中には巨大すぎる岩があった。「どうしてここに岩を置いたのだろう。」「どうやって置いたのだろう。」とおじさんはキラキラした目をしていたが、あんまり興味は沸かなかった。生駒市に行きたかった。写真を撮られるのが苦手だが、その岩とのツーショット写真を撮られ(〇撮ってくださり)、少しテンションが下がったが、ご恩がある手前断れなかった。その後、出店で五穀米のおにぎりと飲み物を買ってくださった。飲み物はどれがいいか聞かれたので、遠慮して一番安かったいろはすを指さしたら「いろはすなんて不味い水を飲むな!」と天然水を買ってくださった。自転車に跨ったまま手早くおにぎりと水を流し込み、次のおじさんおすすめの観光スポットに向かった。しんどかった。
若干陽が落ちかかってきたころに、おじさんが駅まで送ってくださった。このあとどうするのか聞かれたので「生駒市に行きます。」と答えた。すると「生駒市なんか何もないから帰りなさい!」と地元の主要な駅までの切符を手渡された。親戚に鉄道会社で働く人がおり、安く切符を買えるらしかった。生駒市なんか何もなくていい、ただ生駒駅生駒市の空気を吸うだけで満足だったが、半ば強制的に帰らされた(〇帰してくださった)。最後、連絡先を交換しようと言われ、おじさんの携帯電話の待受画面が孫娘の写真だったので、悪い人ではないのだろうと番号を交換した。「次はお友達と来てね。」と言われ心に傷を負った。地元の主要な駅についてから、お礼の電話をかけた。
母が最寄り駅まで車で迎えに来てくれていたが、助手席に座った瞬間気を失ったように寝てしまった。どうやって家に入ったのかも覚えてないが、翌日、母に誰かに襲われたかと思って心配したと言われた。このことは母には言っていない。


濃く覚えているのはこれくらいなのだが、30年も生きてりゃもっとたくさんの知らない人たちに助けられていると思う。覚えていないと感謝の念も抱けないから、極力忘れずにいたい。