10年経ったから書いてみよ、祖父とのこと②(駄文)

https://mojikakeruinu-guzman.hatenablog.com/entry/2020/12/10/220921
の続き

退院した祖父との2人暮らしが始まった。
私は短大の家政科に通っていたのに、ほぼ全く料理が出来ず申し訳なかった。
祖父は米の研ぎ方にうるさく、毎回水が透明になるまで洗わされた。あと、排水口に米をこぼすのも怒られた。
親戚が釣った魚とか作ったお惣菜を持ってきてくれるのと、夕食は毎日宅食を頼んでいたから、食べるのものには困らなかった。
祖父は毎日食べている宅食は飽きているのか、ほぼ私が宅食のお弁当を食べていた。

退院してから1週間だったか正確には忘れてしまったけど、夜にガシャーン!という音がして目を覚ました。
音がする方に行ってみると、祖父がトイレで倒れていた。頭を切っていて、立ち上がることが出来ずに、四つん這いでしか歩けなくなっていた。
祖父は何がなんだかわからないような様子だった。

ここから朝までよく覚えてないんだけど、また祖父に寝て大丈夫と言われてそのまま爆睡してしまったと思う。

朝が来てもまだ祖父は立ち上がれず四つん這いでしか歩けないのに、病院にはいかないと行った。
何度も説得して、祖父兄の車で病院に行った。

祖父が検査をしてたときに何をしてたのかとかどれくらい時間がかかったのかとかよく覚えてなくて、次に覚えてるのは祖父が肺炎で入院してたときと同じ病室、同じベッドにいて、私が主治医に廊下に呼び出されたところ。

「肺がんが脳に転移しています。」と淡々と言われた。

ん?脳に転移?そもそも肺がんだったの?

夕方になると、親戚の叔母ちゃんと叔父ちゃんが病院に来た。
叔父ちゃんに「自分の口で母に伝えられるか?」と聞かれ、母の悲しむ顔が浮かんで「言えない。」と答えた。
その様子を見た叔父に「もしかして知らなかったの?」と言われた。

そういえばと思い出したけど、春先に祖父が体調不良だと母が長崎に行っていた。帰ってきてからどうだったのか聞いたら、何ともなかったと言われたのですっかり忘れていた。そのときには既に祖父はステージⅢの肺がんだったらしい。

祖父宅に戻ってから、何で言ってくれなかったのか、何でそんな祖父と私が2人きりで生活するのを許したのかと母に泣きながら電話すると、祖父が高齢だから体力的に治療はしない方がいいと決めたこと、高齢だから進行も遅いと思ったこと、これから今まで通り幸せに余生を生きてもらうために祖父本人には言わないほうがいいと思ったこと、孫の私たちに言うと雰囲気から気付かれると思ったから私たちにも言わなかったと言われた。


この日からまたお見舞いの毎日が始まるけど、肺炎で入院したときとは違い全くゆる〜い日常ではなかった。
祖父はどうして左半身が動かないのか知りたがっていた。でも、母が言わないと決めた以上は私の口からは言えなかった。ただ座るのも安定せず、ご飯を食べるのも一苦労だった。一人でトイレに行くこともできなくなり、オムツを変えてもらうときには「赤子に戻ったようだ」と苛立ちながら言う祖父の声が聞こえた。

「あ〜あのとき、〇〇と〇〇と一緒に死ねばよかった。」母に聞くと、戦死した友人の名前だった。

そんな毎日だから、お見舞いにも行きたくなくなり事実ではあったが、お金がなくなったことにしてお見舞いに行かないと言ったら祖母の弟嫁がお金を渡してきたので行くしかなかった。

5週間くらい朝10時のバスに乗って16時のバスで帰ってくるのを毎日通い続けたんだろうか。
昼間は祖父は寝ていることが多くなり、私も机に突っ伏して寝たり、大学編入のための勉強をしたり、親戚の叔母ちゃんが暇つぶしにと買ってきてくれた刺繍をして過ごした。完成した刺繍は、病室に飾ってたけど、祖父が亡くなったときに棺桶の中に入れた。
祖父は不味いまずいと言いあんまり病院食を食べたがらなかったから、残したら私が全部食べた(だめだけど)。私の口には美味しかったけど、やっぱり入院してる人と家に帰れる私の口とは違うのかもしれない。
もともと管理栄養士を目指していたけど、病院食を作る管理栄養士っていう具体的な目標も出来た。



いい人達だけど人見知りの自分が祖母の弟宅で寝泊まりするのもストレスで、毎日頭痛に悩まされるようになり、祖父宅でひとりで寝る日もあった。

けど、病名を知らされずに苦しんでいる祖父を見てる方が辛かった。
祖父は不眠に悩まされ、夜は痛みで眠れなかったようだけど、私は日中の祖父しか見ていないから全く知らなかった。同室の木場のお婆ちゃんとかは、毎日寝泊まりしていたからその様子を知っていて、うるさいと少し文句を言われた。

1ヶ月半経つと、母が仕事を休んで長崎に来てくれた。相当私が参っていたからだと思う。

1ヶ月半ぶりに会った母は、祖父が私を頼りにしている姿を見てビックリしていた。特に、「ぐすまん!」と呼ばれるとすぐに私が肛門のただれに薬を塗る姿とか、し尿瓶でトイレを済ませてあげるところとか…なぜかこういうのは全く苦には感じなかった。
肺炎で入院してたときに、祖父は大腸がんの既往もあり便秘気味だったから便が出たのが嬉しかったらしく「ぐすまん!うんちのようけでたけ見んか!」と男子トイレに入らされうんこを見せつけられたのは勘弁してほしかったけど…


肺炎で入院してたときもそうだったけど、夕方になって帰るときは必ず祖父と「また明日ね。」と言って握手をした。

2ヶ月経って、私の夏休みが終わったのでお見舞い生活は終わった。
学校が始まると、楽しかった思い出を話す友人たちに囲まれて私の夏休みの話も聞かれるけど、周りからすれば少し暗い話だから話せないし、何といったら良いかよくわからずにギャップに頭が混乱した。

11月頃になると、母からもう祖父は長くないと連絡がきた。だいぶモルヒネの量が増えて、意識朦朧としてる時間が増えたらしい。

生きている間にもう一度会いに行ってもいいかと聞くと、喋ったりは出来ないよと言われたけど、会いに行った。
祖父のそばに行って「お爺ちゃん」と言うと、カッと目を見開いて力強く手を握ってくれた。
「帰るね」と言うと聞き取れなかったけど、何か言ってくれていた。

それからひと月後に祖父は亡くなった。
会う親戚会う親戚に、「夏に私がいてくれてよかった。じゃなかったら祖父は家で一人で亡くなってたかも。」と言われた。私からしたら祖父は一人でいた方がノンストレスでもっと長生きできたんじゃないかとも考えてしまう。高齢なのに、春先に発覚して1年持たずに亡くなってしまった。


そんな感じで絶対に忘れたくない19歳の夏休みだった。
また思い出すことがあったら、書き足していく(その際は更新しない)。